おにぎり山

こころおきなく長文で

その訃報を知ったのは2017年6月22日の水曜日の夕方。私は仕事場に一人でドンヨリした感じで居た。旧友の名前で着信があり、すぐに切れた。一週間ほど前にも彼から着信はあった。が、コールは一回で切れた。電話でも、会った時でもどうも噛み合わず、ケンカをしている訳でも無いけれど、ずっとしっくりこない間柄だった。私だけなのだろうか、と思って共通の知人に何人かに聞いてみても、皆わりと同じことを言う。彼は独特な距離感を持って人と接していた。丁寧で、でも誰も寄せ付けない。丁寧で、でもとても上から物を言う。でも上から言っている気持ちなど全く持っていなかったと思う。これが彼にとって、全くの普通であり上でも下でもない。とても丁寧でゆったりしている。どこかの王室とかの皇太子だったらこんな感じだろうか。最初は大金持ちの御曹司、と書こうと思ったが、大金持ちの持っている多少の成金らしさは全くない。大金持ちと呼ばれる知り合いは三名居る。お金があるということは庶民からするとうらやましいことではあるが、自分の才能や努力によってではなく、生まれた時からもう家にはお金があるとなると、ある性格のものにはお金の無さによるセコセコした感じがなく、鷹揚な育ちの良さが備わる。しかし、これも場合によっては世間知らずのぼんやりとしたボンボン、育ちの良さはあるものの、実戦向きではない人間が出来上がる。またあるものは、生来持っている陰気さ、偏屈さを周囲から疎んじられ、それによって性格がますますひねくれた。かつ、家にお金はあるが、それは自分の才能によってではなく、ただ「お金がある」という状態で、それがまた周囲から逆差別を受ける。その鬱憤を普段はひたすら抑えつけているが、ときたま漏れ出ている。「この貧乏人が!」「田舎者が!」などと暴言を吐き、またそれ故、疎んじられる。私はこのエピソードに接するたびに、器の小さい人間だなあとひそかに思っていた。思っていたけれど、口には出さなかった。あまりに救いがないからである。口には出さなかったけど、たぶんこの感情も漏れ出ていたのだと思う。人間はこんなにも色々なことを悪意を持って感じ取り、疑り深く、自分に自信がないくせに、おびえているくせにそれを攻撃という形で表現出来るのかとうんざりした。まあこんな人間はそうそういるものではないと思うが。

せっかくお金があるのに、元々備わっている性格のせいで台無しである。彼ら彼女らともう会うことはない。絶対にないが、今もどこかで周囲との軋轢に苦しんでいるだろう。私が私の日々をなめらかに送れていないように、と書きかけてふと気づく。あの人たちに比べれば、私の日々のちいさい棘などは全く問題がないということに。

と、ここまでの話はフィクションで特定の誰という訳では無いとしておこうと思う。

話は戻って、訃報の本人のことだが、とりあえず付き合いは本当に古い。そして特殊な関係であった。私はずっとちょうど良い接し方というのを自分なりに模索していたけれど、結局見つからなかった。見つからないまま、交流を持った。お互いの状況をはげましたりしていたけれど、彼の方でも同じだったと思う。思う、なんて雑にくくるとまた彼に怒られそうだが。色々と細かいところに異常に気のつく人であった。私のようなうかつな人間は叱られてばかりいた。叱られるような事柄でもないことまで言われることも多かった。その都度私は内心、うるせえな…と思っていた。叱られるべき、わかりやすいうかつ案件に関しては自分のうかつさを詫びつつ、無力さにうちのめされていた。そんな風にして、彼と私は仕事をしていた時期もあったし、最悪それ以下の事態から疎遠になったこともある。そのまま疎遠になっていてもおかしくなかったが、お互いに起こった出来事、その最中にもたらされた共通の知人からの電話によって再会することになった。その電話をしてきた知人は私たちのその時の状況を全く知らなかったというのだからおかしなものである。そういう電話を知らずにしてくる役柄として彼は最適であったのだろう。私は彼と彼の妻に会った二時間のたわいもない話で、ずいぶんと元気になったし。毎日悲惨な状況に居ざるをえない人間にとってみれば、たわいもない話は本当にありがたかった。彼の方はどうだったか知らないが、無聊を託つ、治療をする毎日にいつもと違う刺激があったのではないかと思う。さみしいから友達がお見舞いにきてくれるのが本当にうれしい、治療とか大変な日々なんだから、そのくらいの楽しみがないとやってられないと言っていたのを思い出す。

正直なところ、まだ信じられない、状況がのみこめないでいる。毎日会っていた話していたという関係でないから、「いない」という状況がピンと来ない。この十年で亡くなった知人はいる。でも、その誰もがすぐには会えない、どこか遠いところへ行っているような気持ちになっている。家族であれば、そんな呑気なことは言っていられないだろうが、少し距離のある友達、知人であれば、ずっと実感がわかないままというのは致し方のないことではないだろうか。実感がわかない。ただそれに尽きる。
さきほども、彼の知人に連絡をするための連絡先を探していた時に、そうだ彼に訊けばわかる、彼と近しかったし……とぼんやりと思った。彼というのは今回の訃報の当人のことである。彼の訃報を知らせるための連絡先を本人に訊こうとする、まるでばかげた話ではあるが、そのくらい実感が沸いていない。あとからじわじわと沸いてくるのだろうか。すごく悲しくなるんだろうか。悲しい気持ちになるのだろうか。今、とにかく思うのはご高齢である彼の両親のことである。お二人の気持ちが少しでもやわらぎますように。八十を過ぎてこんな思いをしなければいけないというのは本当に酷である。どうしてこんなことが起きるのか。理不尽にもほどがある。

彼との仕事のなかで、クラゲは印象的なものだった。この種類じゃないけれど、なんとなく貼ってみた。

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