おにぎり山

こころおきなく長文で

突如忙しくなり、忙しいのに慣れてないのでてんてこ舞いになっている。うれしい忙しさとうれしくない忙しさ、その中間くらいに居る気がする。そして、移動している時、待っている時には文章を書くことについて考えている。こういう日々の雑記のようなものを書くのは容易であるが、それ以外のものについては身構えてしまっていけない。思ったことを話すように、多少支離滅裂でも良い(本当に良いかどうかは知らないけど)から文にするのが良いのだと思う。忙しいのと家に籠もらないと行けない理由も別にあるのとで、ZEPPにもその他の色々なものも見送っている。でも去年は家に居なさすぎたからちょうど良い。文章を書いていると落ちつく。自分が思っていることをそのまま、また具体的にまとまっていなくても、文になるとなんとなくそんな気がしたり、はっきりと違うな、そんなんじゃない、とわかったりもする。とにかく、編み物をするような感じで、刺繍をするような感じでチクチクと。

先日の訃報関連で90年代の終わりにあったきりの人にあった。住所をお知らせしたりの業務連絡でメールと電話でやりとりし、その後実際に会ったのだ。ずいぶんと長いブランクを経て、訃報をきっかけに会うことになるとは思わなかった。最後に会った頃には全くそんなことを思わなかった。自分や自分の周りに死の影はなかったし。実際はごくたまにあったけれど、20代や30代でなくなる人は本当に稀であった。人々は特に長生きしたい訳でもないし、と言って煙草をたくさん吸い、お酒をたくさん飲んだ。仕事や遊びで遅い時間、あるいは早朝まで起きていたりしていた。結婚している人はいたけれど、子どもがいる人はほとんどなかった。あれから20年近い年月が過ぎ、子どもを持った人も多い。ライフスタイルは必然的に変わっていった。長生きしたい訳ではない、と言っていた私を含む人々も人間はすぐ簡単にコロリと死ぬことが出来ないことがわかってきた。身内や友人の闘病、逝去に接する事で、人間が死ぬのは大変なことだということがわかってきた。ようやく。一番辛いのは死ぬこと自体よりも闘病や副作用での苦しみなのではないか。いま私は延命のための色々や、臓器移植、再生医療など、「自然に死んでいくこと」に反した治療には反対という気持ちを持っている。もっと自然に死んでいくべきではないかと思っている。何を、そこまでして、という気持ちではいるけれども、いざ、自分の身内がそういう状況になったらどうだろう、と思うようになった。たとえば、息子が脳死状態で他の子どもが臓器や四肢、その他色々なものを待っていたとしたら。正論では、臓器の提供をするのが脳死状態が続くよりも本人のためにもなるのでは、と思っていても、まだ暖かい体から他の子のために……と思うと、想像するだけで躊躇する、頭ではわかっていても、感情が受け付けない。体がつめたくなって、魂が抜けたら諦めもつくのだろうか。いま息子は幸いそういう状況ではないけれど、一度死を意識したことを思い出すとぞっとして胸の奥が冷たくなる。こんなことは本当は想像すべきではないのだと思う。思ったのでもう止す。

自分はもちろん、人というのは本当に変わっていくのだなとよく思う。芯の部分、本当の奥にある部分はたぶんそう変わらない。多少の成長や、痛い経験をして学習するのかもしれないが、子どものころから産まれたことから備わっている個体特有のものは変わらない。変わるのは表面上の人から見てわかる部分、言動や行動だけだ。それが中身とリンクしてないことは多いだろう。いろいろな経験で矯正されたりして出来上がったのがいま表面に現れているソレなのだと思う。以前は良いなと思っていた人の言動が、ぞっとするものになったのはその人がぞっとするような人間になったこと、また受けてである私の方がそういうことに過敏になったのと両方だろう。双方の違いによって、気がついたらずいぶん遠いところに来てしまったという気がする。いぜん自由だと思えたところは、極めて勝手な、年甲斐もない言動にうつる。最悪である。また相手からすると私は年齢相応に陰険になっている、後ろ向きになっているのだろう。年齢を重ねて、色々な経験を積み、色々なことの予想がつくようになった。なったから、新鮮な驚きもなく、ああ……あーねー……など、醒めたシニカルな反応しか出来ない。若い頃なら、うわあそうなんだ!と言えてたようなことも、もう知っているからそんな風にも出来ない。もっと器用な人間ならば、とりあえずの社交術としてそういう態度を取るのかもしれない。私もあまりないそういう部分をかきあつめてがんばるときもあるけれど、あんまり元々そういうのないから、それなりにしか出来ない。

こういうことを書くと、後ろ向きで鬱状態なのではと思われることを恐れている。でも鬱状態などではない。感情は低いところでずっと一定の高さを保っている。上がりも下がりもしてない。低空飛行、小康状態と言ったところだと思います。

以前普通にやっていたことをやってみようキャンペーンの一環で、バナナを熟しすぎの状態にした。そしてバナナケーキを焼いた。やってみると全然簡単であっけないものだが、ずっと出来なかった。実際制作部分よりも、気合いのところ。えいやっ!という勢いが全く無くなっているのを実感。そういう勢いでプールに行ったり、歩いたり、人と会ったり、旅行に行ったりしていたのだ。まあ人に会ったりは今でも出来ているけれど。とりあえずバナナのは美味しく出来たので、また作りたい。

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